2023年03月
2023年03月01日
神という存在について
私自身としてはクリスチャンである。
父親が青年時代からクリスチャンであったこともあり
キリスト教の教義は自分にとってどうなのかどうかという以前で、
「神様」の存在は空気みたいな存在である。
時折離れることはあっても、基本的は神様とつながっている。
こちらの気持ちが離れようが、それで私を見放すような、心が狭い神様ではない。
人間なので、辛くなれば「神頼み」する。
(ちなみにご利益を願う、というのともちょっと違う感覚だが、助けてもらいたいとお願いする感じ。)
(ちなみにご利益を願う、というのともちょっと違う感覚だが、助けてもらいたいとお願いする感じ。)
年を重ねていくと、
いろいろな経験を経て、いろいろな思いが心にたまってくる。
「こんなはずではなかった」
「あれをこうすればよかった」
「本当は私は●●だけれど、言わないでおく」
そうした、さまざまな思いを振り返るときに、寄り添うのが「神様」なのだと思う。
もちろん、実在の”ヒト”が寄り添ってくれる場合もあるが、
いつでも、そういう”ヒト”がいるわけではない。
時間的、空間的、心理的な壁もある。
チェーホフの「ワーニャ伯父さん」で、
主人公の妹、ソーニャが、いろいろな辛い出来事の後に、伯父にかける言葉が心に沁みる。
「ワーニャ伯父さん、生きて行きましょう。長い長い日々を、長い夜を生き抜きましょう。(略)そしてあたしたちの最期がきたら、おとなしく死んでゆきましょう。そしてあの世で申し上げるの、あたしたちは苦しみましたって。涙を流しましたって。つらかったって。すると神様はあたしたちのことを憐れんでくださるわ。(後略)」
寄り添っても具体的に何もしてくれないなら、
意味はないではないかと思う人がいるかもしれない。
もちろん、何かをしてくれればそれに越したことがないが、
それが長い人生のなかで、
ある出来事の流れが本当の私のためなのかどうかは神のみぞ知るわけで、神の計画である。
ただ誰かは分かってくれる人がいる、ということで救われるというのが宗教のような気がしている。
意味はないではないかと思う人がいるかもしれない。
もちろん、何かをしてくれればそれに越したことがないが、
それが長い人生のなかで、
ある出来事の流れが本当の私のためなのかどうかは神のみぞ知るわけで、神の計画である。
ただ誰かは分かってくれる人がいる、ということで救われるというのが宗教のような気がしている。
それはキリスト教であろうが、仏教であろうが、神教であろうが、同じではないか。
特に私にとって神は親しい友人に近いかもしれない。
特に私にとって神は親しい友人に近いかもしれない。